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かつてVシネマ「ミナミの帝王」で演じた萬田銀次郎役をきっかけに、Vシネマ黄金時代を築き上げ、支えていた竹内力さん。
現在は「龍が如く0」で演じたボスキャラの怪演もあり、海外でも人気が出ています。
今回は、竹内力さんの生い立ちについてハーフあるいはクォーターだったのではないかという噂があります。
竹内力さんは果たしてハーフあるいはクォーターであったのでしょうか。
今回、竹内力さんの生い立ちについてもご説明いたします。
ぜひご覧ください!
竹内力はハーフでもクォーターでもない!
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結論から申し上げると、竹内力さんはハーフやクォーターではありません。
彼の圧倒的な存在感や強烈なオーラから、一部の人々が「ハーフなのでは?」と誤解することもあるようですが、実際にはそういった血筋ではないと言われています。
竹内力がハーフでもクォーターでもないと言える根拠
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それでは、竹内力さんがハーフやクォーターではないといえる証拠はどういったものがあるのでしょうか。
今回は竹内力さんがハーフではないといえる証拠を3つご紹介します。
根拠①両親が純日本人だから
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竹内力さんの両親についてですが、こちらは純粋な日本人であるといわれています。
また、竹内力さんは、大分県の家具職人の父親の元で生まれました。
そんな竹内力のお父さんのお名前は「守人」というお名前で、日本人であったといわれています。
母親は果たして何人であったのかは不明ですが、もしもこれが外国人であるなら何かしらの情報が書かれることから、父母そろって普通の日本人であることが予想されます。
根拠②名前が通名ではないから
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竹内力という名前が通名なのではないかと誤解をされることが多くあります。
通名というのは日本で生活をする外国人の人が使用する日本名であるとされており、これらは主に在日コリアンの方々が使用するといわれています。
しかし、竹内力さんが通名であるという証拠はほぼなくデマであるといわれています。
根拠③国籍が日本だから
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竹内力さんの国籍は日本ということになっています。
日本以外の国籍を使用しているのであれば、何らかの形で公式サイトで発表されることが多くなっている昨今です。
竹内力さんに日本以外の国籍をしているという情報は出ていないので、日本と別国の二重国籍であるという可能性はあまり考えられないといえるでしょう。
竹内力がハーフ・クォーターと噂された理由
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では、竹内力さんがハーフあるいはクォーターなのではないかと噂された理由とは一体どんなものなのでしょうか。
今回は、竹内力さんがハーフやクォーターと噂された理由について、様々な理由をご紹介します。
理由①顔立ちがハーフみたいだから
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竹内力さんがハーフ・クォーターなのではないかと疑われるようになった理由について。
まず最初に竹内力さんの顔立ちが日本人離れした、いわゆる「濃い顔」をしていることからハーフなのではないかという疑いが持たれました。
特に竹内力さんはハーフの中でも、いわゆる日本と白人のハーフというより、日本とフィリピン人のハーフのような顔つきにみえます。
このことも竹内力さんがハーフと噂される理由となったようですね!
理由②身長が高いから
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竹内力さんですが、その身長は180㎝と日本人ではかなり高身長の部類に入ります。
こういった高身長であるところから、竹内力さんはハーフなのではないかといった観方がされることもありました。
理由③金髪が異様に似合っているから
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竹内力さんは長年黒髪オールバックというイメージが強くありましたが、近年では「欲望の街」というドラマシリーズに出ており、そこでは金髪に髪型を変えていました。
また、2023年に放送された「かっこいいスキヤキ」というドラマの中では青いカラコンをつけて、ジェームス本郷と呼ばれる外国人風のキャラクターを演じていました。
この金髪風メイクが非常にハマっていたことから、ハーフなのではないかという疑いがかかっているともいわれています。
竹内力の生い立ち
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次は竹内力さんの気になる生い立ちについて、様々な情報をみていきます。
果たして竹内力さんは若いころ、どのような少年時代を過ごしていたのか。
また俳優になる前にしていた銀行員時代は、どういったエピソードがあるのでしょうか。
幼年期のエピソード
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竹内力さんは、幼少期から非常にやんちゃな性格だったようです。
幼馴染が近所の子供にいじめられて泣いていたことを知ると、プラスチックのバットを持ち出して、復讐しにいこうとすることがあったといわれています。
このように、幼少期から荒々しく義侠心に強かったまさにVシネマのヒーローそのまんまの性格を幼少期からずっと持っていたみたいですね!
小学生時代のエピソード
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竹内力さんの出身小学校は地元の大分県佐伯市内の公立校であることは分かっていますが、具体的な校名は明らかになっていません。
竹内力さんの父親は大工として手先の器用さだけでなく、ものづくりにおいて常に客観的な視点を大切にしており、竹内さんはそんな父親を非常に尊敬していたそうです。
子供の頃から運動神経は抜群で、竹内力さんも「運動神経は良かった。学年で1位だったし、短気で喧嘩っ早い大工の息子で、勉強は嫌いだった」とインタビューで振り返っています。
特に体育と図工が好きで、勉強に力を入れることは少なかったようです。
また、仮面ライダーごっこではショッカーの怪人役を担当し、逆にライダー役の子をライダーキックで倒すというエピソードも。
子供の頃から彫りの深い可愛らしい顔立ちをしていたため、周囲から「かわいい」と言われることが多かったそうですが、本人はそれが好きではなかったと語っています。
さらに、2022年に放送されたスペシャルドラマ『甘美王~麗しのエンジェル・キッス~』のインタビューで、好きなスイーツを尋ねられた際には「甘酒」と答え、小学生時代から甘酒を好んで飲んでいたという驚きの事実も明かしました。
竹内力さんの人生は、まるで自身の代表作『カオルちゃん最強伝説』のカオルのように独特で力強い道を歩んできたようですね!
中学生時代のエピソード
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竹内力さんの出身中学校も、地元の大分県佐伯市内の公立校のようですが校名などは不明です。
中学時代から不良であった半面、非常に手先が器用だった竹内力さん。
中学時代に技術の授業で作った木工の作品が、九州大会で銀賞を獲得するなど、武勇伝以外の伝説もありました。
お父さんが家具職人であったことから、手先の器用さは遺伝で受け継いでいたのかもしれません。
また未確認ではありますが、この中学時代に不良10人相手に乱闘騒ぎを起こしていたともいわれていますが、こちらについては真偽は不明となっています。
高校生時代のエピソード
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竹内力さんの出身高校は、1948年に開校した大分県立の共学校「佐伯豊南高校」です。
この高校は部活動が盛んで知られており、2014年に佐伯鶴岡高校と統合され、新制の佐伯豊南高校となっています(偏差値は39~47)。
竹内力さんは商業科にギリギリの成績で入学したとのことで、勉強が苦手だったことをインタビューで語っています(現在は商業科は廃止されています)。
同じクラスには野球の推薦で入学した生徒が多く、竹内力さんよりも勉強が苦手な生徒も多く在籍していたそうです。
高校時代はサッカー部に所属し、部活動に打ち込む一方、原付バイクの免許を取得し、すぐにバイクを乗り回すような高校生活を送っていました。
竹内力さんは自分の高校生活について「田舎町の平和な不良」だったと述べ、バイクに乗ったり、遊んでいたり、たまに喧嘩をしていたものの、ちゃんと掃除はしていたとも語っています。
「バケツに水をくんで階段にぶちまけてモップを引きずって歩き回る。これで掃除終了だよ。優等生だと思わない?」とユーモア交じりに振り返っていました。
楽器経験はなかったものの、バンドを結成して文化祭ではボーカルを務め、学校中で人気を集めていました。
特に竹内力さんは日本人離れした顔立ちなので、女子から非常にモテていたようで、他校にもファンがいたほど。
とはいえ、当時は交際していた彼女もいたそうです。どんな女性と交際していたのか気になりますね!
また、竹内力さんは高校時代からすでにリーゼントをしており、入学式でその姿を見た上級生から睨まれたというエピソードもあります。
勉強は得意ではなかったとされていますが、竹内さんの個性的で魅力的な青春時代は、まさに伝説的なものだったようです。
大学へは行かず、就職して銀行員に
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竹内力さんは高校卒業後、大学へは進学せず、高校の恩師の勧めで三和銀行淡路支店(現・三菱UFJ銀行淡路支店)に就職しました。
当初、竹内力さん自身は「自分が銀行に就職できるはずがない」と思い、教師の提案を断りましたが、恩師が内申書を書き直して強く勧め、最終的には「半ば脅されるような形で」就職を決めたそうです。
インタビューでは次のように振り返っています。
「担任が無理やり銀行に入れたって感じですね。内申書を書き直して(笑)。嫌だったけど、『お前は普通の会社に入れないんだから』って言われて、結局就職しました。」
さらに別のインタビューでは、銀行に就職した経験が後の演技に役立ったと語り、「札束を勘定する技術が演技に活かされた」と笑って話していました。
竹内力さんは銀行員時代もリーゼントの髪型を貫き、窓口業務をしていたそうですが、それでも営業成績はトップクラスでした。
竹内力さん自身、銀行員という職業に馴染むことはなかったものの、彼の男らしい風貌が女性客に人気を集め、営業成績に大いに貢献していたと言われています。
みんなが固い挨拶をしているところ、竹内力さんは「へい!らっしゃい!」とあいさつをしていたそうで上層部からはお叱りを受けていたそうな……
また、竹内力さんの大阪弁については、一部の大阪人から「下手だ」と言われることもありますが、地方出身者としては非常にリアルな大阪弁で、恐らくこの銀行員時代に培われたものだと考えられます。
竹内力さんは、銀行員時代も自分のスタイルを貫き、リーゼントで仕事を続けたことが、彼の伝説的なエピソードの一つとなっています。
銀行員は2年で退職し、俳優人生の道へ
銀行員として活躍していた竹内力さんですが、自身の中では渇きを感じていました。
2年2か月で銀行員の仕事はやめてしまい、貯金をためて買ったバイクとともに上京することに。
六本木のクラブハウスでウェイターとして働いていたところに芸能事務所からスカウトされ、俳優に転身することとなりました。
そして、1985年には俳優としてデビュー。
デビューして以降、複数の作品でしばらくはさわやかな好青年役を演じていたのですが、1992年から制作された伝説のVシネマ作品「難波金融伝・ミナミの帝王」シリーズに初出演をします。
シリーズ初期、主人公の萬田銀次郎は、若くほかの客や金融業者に振り回されるような一面がみえてきましたが、シリーズが進んでいくうちに消費者金融業者としての拍が付くようになりました。
このシリーズが成功すると90年代のVシネマを代表する俳優として定着するようになりました。
竹内力が俳優を目指したきっかけ
画像出典元:X(旧Twitter)
竹内力さんが俳優を目指したきっかけは、もともと竹内力さんが歌手志望だったことにあります。
銀行を退職し、貯金をためて買ったバイクとともに上京し、六本木のクラブハウスでアルバイトをしていた際に芸能事務所からスカウトを受け、1986年に俳優としてデビュー。
当時はバブル経済の真っ只中で、トレンディードラマが流行していた時代。
竹内力さんもフジテレビの「101回目のプロポーズ」(1991年)でバイオリニスト役を演じるなど、好青年役のオファーが続きました。
しかし、竹内力さんはこれに違和感を感じ「歩き方ひとつでも“品行方正な役だからガニ股で歩かないで”と注意されて、自分とは180度違う役を演じるのがしんどかった」と語っています。
そんな中で出会ったのが、「難波金融伝・ミナミの帝王」(1992年)や「仁義」(1994年)シリーズなどのアウトローな役柄でした。
「やんちゃな役をやると評判が良く、生きていて楽しいと思った」と、竹内力さんはその後、やりたい役に活路を見出し、「自分のやりたいことだけやって駄目なら田舎に帰ろう」と覚悟を決めて独立しました。
1997年には製作会社を立ち上げ、俳優としてのキャリアと並行して映画製作にも乗り出しました。
「俳優が自分で製作会社を作るというのは、実質“仕事はいらない”と言っているようなもの」と言いつつも、竹内力さんは自ら仕事を生み出すことに挑戦。
「ミナミの帝王」は、多い時には年間6本も制作され、竹内力さんの会社は次第に大きく成長。
近年では「死刑にいたる病」(2022年)や「茜色に焼かれる」(2021年)といった話題作にも携わっています。
竹内力さんは「常に新しいことをしないと注目されない」と語り、その軸となるのは「思いっ切りの良さ」とのこと。
勉強は苦手だったものの、時代の先を読む感覚は持ち合わせており、LINEスタンプをいち早く発売するなど、竹内力さんが持つ先見の明はピカイチです!
プライベートでは明るくお茶目なキャラクターが好評で、「ミナミの帝王」のコワモテイメージを覆す一面も見せています。
「若い人に“可愛い”って言われるのは嬉しいね」とくっきりとしたえくぼが浮かび、太い眉がハの字になる笑みを浮かべる竹内力さん。
小さい頃はかわいいと言われることに抵抗があった竹内力さんが、かわいいと言われてうれしいと思えることに感慨深くなりますね!
これからも持ち前の男らしさと愛嬌で活躍していくことを祈りたいです!
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