【韓国人ではない!】大山悠輔の成長軌跡に涙が止まらない…

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2023年、阪神タイガースを38年ぶりに日本一にした立役者の一人である大山悠輔さん。

4番としてチームを引っ張り、チームのために泥臭くプレーするスタイルは監督やチームメート、ファンから絶大な信頼を得ています。

そんな大山悠輔さんですが、実は韓国人なのではないかというウワサが出ていました。

いったいなぜそのようなウワサが出たのか?

そして大山悠輔さんは韓国出身なのか?

調べてまとめました。ぜひご覧ください!

大山悠輔は韓国人ではない!

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画像出典元:Number

結論を言うと大山悠輔さんは韓国人ではありません。

大山悠輔さんが帰化したという情報や、韓国籍の名前についても出てきませんでした

国籍は日本で、出身地は茨城県下妻市です。

大山悠輔が韓国人ではないと言える根拠

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画像出典元:Google画像検索

大山悠輔さんの出身地や韓国籍での名前がないことで韓国人ではないという情報をお伝えしました。

他にも大山悠輔さんが韓国人ではないと言える根拠を皆さんにお伝えします。

それでは下記に羅列していきます!

理由①両親が韓国人ではないから

大山悠輔さんのお父様は、大山正美さんという方で、国籍は日本です。

特に目元が大山悠輔さんに似ていると言われており、顔つきからも親子のつながりが感じられます。

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茨城県下妻市で「そば処きぬ」という蕎麦屋を営んでおり、親としてユーモアに富んだ方です。

かつて、大山悠輔さんに「お前はボールを打て、俺はそばを打つ!」と、ユニークな励ましの言葉を送ったエピソードがあり、お茶目な性格を垣間見ることができます。

また、お母様の名前は大山正枝(まさえ)さんで、彼女も日本国籍です。

顔についての詳細は公にされていませんが、お父様と共に「そば処きぬ」の運営を支えています。

ご家族でお店を切り盛りしていることがわかりますね!

大山悠輔さんは特にお母様に深い感謝の意を示しており、「ここまで自分を支えてくれたのは母親です。本当に感謝しています」と語っています。

さらに、「まだまだ親孝行は足りない」と謙虚な姿勢を示し、野球だけでなく日常生活でも恩返しをしていきたいという強い思いを持っています。

このような家族への思いが、彼の人間性や選手としての成長に大きく寄与しているのでしょう!

大山悠輔さんの謙虚さと感謝の気持ちは、彼の飛躍の原動力とも言えるでしょう!

理由②韓国代表候補に選ばれていないから

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2つ目の理由として、大山悠輔さんが韓国代表の候補に選ばれていないということもあります。

アスリートの世界においては、国際大会が関係しますので芸能人と比べると帰化したかどうかの情報はアスリートの方が出回りやすいです。

今まで在日の選手が韓国代表に選出されたことは、暗黙の了解でありませんが大山悠輔さんがもし在日韓国人であれば候補に選ばれるのではないかと考えられます。

よってこの事も大山悠輔さんが韓国人ではないと言える理由となります。

余談ですが大山悠輔さんは大学時代の2016年とプロの2019年に日本代表メンバーに選出されています。

大山悠輔が韓国人と噂された理由

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大山悠輔さんはいったいどこから韓国人とウワサされるようになったのでしょうか?

理由を調べて行ったところ、大きな理由として2つありました。

理由①韓国人のような顔立ちだから

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大山悠輔さんの顔の特徴として、細い目があります。

細い目と言えば、韓国の方を想像する人も多いのではないでしょうか。

韓国のアーティストでも細い目をした人たちが多数いますからね!

そして、この細い目からの連想でもう一つ大山悠輔さんが韓国人とウワサされる理由となる出来事があったのです…

理由②元阪神監督・金本知憲の隠し子というウワサが出たから

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大山悠輔さんが韓国人なのではないかと言われる理由。

それは元阪神監督の金本知憲さんが関係しています。

2016年のドラフト会議で阪神タイガースに1位指名された大山悠輔さん。

ですが指名された当初は、なぜ大山悠輔さんが1位指名なのか疑問の声が上がっていました。

そして指名あいさつで当時監督の金本知憲さんが大山悠輔さんの元へ訪れた際に、あまりにも目元の所が似ているとびっくりされたのです!

金本知憲さんは在日韓国人で、帰化前の本名は金知憲(キム・ジホン)

2001年に日本人女性と結婚するにあたり、日本に帰化した経歴があります。

金本知憲さんと大山悠輔さんの目元が似ていることから、大山悠輔さんは在日韓国人なのではないかというウワサが出たのです!

また指名に疑問を持った方から「大山悠輔は金本知憲の隠し子で、えこひいきでドラフト指名したのではないか」という言葉が飛び交ったのです!

大山悠輔さんは在日韓国人でもなく金本知憲の隠し子でもありません!

ウワサが一人歩きすると、大変なことになりますね…

大山悠輔の生い立ち

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画像出典元:朝日新聞デジタル

大山悠輔さんはプロ野球選手、そして虎の4番になるまでどのような軌跡をたどってきたのでしょうか?

それぞれの幼年期や学生時代、そしてプロ野球選手でのエピソードについてまとめていきます!

幼年期のエピソード

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画像出典元:Twitter(X)

大山悠輔さんは1994年12月19日、茨城県下妻市で大山家の長男として誕生しました。

幼年期はおじいちゃんに連れられて、東京ドームで読売ジャイアンツの試合を観に行っていたみたいですよ!

その影響で小さい頃は読売ジャイアンツの松井秀喜さん、高橋由伸さんのファンでした。

熱狂的な阪神ファンの方は複雑かもしれませんが、2人とも華があるスター選手でしたからね!

茨城となると読売ジャイアンツの試合を見に行くのは無理もないでしょうからね!

小学生時代のエピソード

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大山悠輔さんが通っていた小学校は、下妻市立宗道小学校でした。

野球との最初の出会いは小学1年生の時に訪れます。

お父様に連れられて、地元の茨城県下妻市にある少年野球チーム「宗道ニューモンキーズ」の試合を観に行ったのがきっかけです。

試合を見ていた大山悠輔さんに、なんとそのチームの監督である都井誠さんから「試合に出てみるか?」と突然の誘いがかかります。

予想外の展開に大山悠輔さんも驚きました。

というのも、彼はまだグラブを持っておらず、野球チームに所属していなかったためユニフォームもありませんでした

この日もジャージ姿で観戦していたのです。

それでも大山悠輔さんは「試合に出たい!」という純粋な気持ちが湧き上がり、チームメートからグラブを借りて、そのままジャージ姿でセンターのポジションに立つことになります。

この出来事が、大山さんと野球の深い結びつきの始まりとなりました。

いきなり打球が…追いかけることで野球の楽しさを知った

試合に出た大山悠輔さんは、緊張しながらセンターのポジションに構えていました。

すると突然、大山悠輔さんの近くに痛烈なライナーが飛んできます。

その打球は左中間を勢いよく抜けていきました。

しかし、大山悠輔さんはそのボールを追いかける瞬間に「楽しい!」と感じ、これを機に本格的に野球を始めることを決意しました。

「宗道ニューモンキーズ」の監督である都井誠さんは、「怒ったり、技術指導をするのは後からいくらでもできる。まずは野球を楽しんでほしい。それが一番大事」という信念を持っていました。

この考えから、大山悠輔さんをチームに所属していないにもかかわらず試合に出すという大胆な決断ができたのです。この姿勢は、指導者として素晴らしいものですね。

チームの練習は週末の土曜日と日曜日に行われていましたが、平日には大山悠輔さんと他の子どもたちが都井監督の自宅の庭でトスバッティングや鬼ごっこをしながら遊びました。

この自由で楽しい環境の中で、大山悠輔さんは野球の楽しさを学び、プレッシャーを感じることなく最高の環境で成長していきました。

大山悠輔さんは後に「常に笑顔でやさしく教えてくれた。そのおかげで、今でも野球を頑張ろうと思える。(野球の)原点はそこにあります」と語り、都井誠さんへの感謝の気持ちを表しています。

みんなが遊ぶ中、黙々と素振り…将来の夢は「プロ野球選手」に

大山悠輔さんは次第にその才能を開花させ、試合では毎回のようにヒットを放つ活躍を見せるようになります。

試合の合間に公園へ立ち寄ることがあっても、他のチームメートが遊具で遊んでいる中、大山悠輔さんは一人で黙々とバットを振って練習していたそうです。

元チームメートで現在は茨城県でパティシエとして活躍する松尾真弥さんは、「大ちゃんはいつも打っていた印象があります。それに、みんなが遊んでいるのに、一人で練習している姿を見て、すごいなーと思っていました」と当時の大山悠輔さんを振り返っています。

楽しむことを大切にしていたチームだったため、宗道ニューモンキーズは特別強いチームではありませんでした。

大山悠輔さんが在籍していた6年間で大きな大会を勝ち進むことはできませんでしたが、そこでの経験が彼の野球人生の礎となりました。

幼い頃から「プロ野球選手になって、家族に大きな家を建てるんだ!」と口癖のように話していたといいます。

小学校の卒業文集にも「将来の夢はプロ野球選手」と書き記した大山悠輔さん。

ここから、彼のプロ野球選手への道が本格的にスタートしていきました。

中学生時代のエピソード

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大山悠輔さんは中学に進学すると、下妻市立千代川中学校で軟式野球部に入部します。

シニアリーグではなく学校の野球部を選び、1年生から遊撃手としてレギュラーに抜擢され、2年生ではチームのエースとして投手を務めるようになります。

しかし、大山悠輔さんの投球スピードは120キロを超え、その速さに同級生の捕手がうまく対応できず、捕球ミスが敗戦につながることもありました。

捕手が責任を感じて全体練習後も個別練習を続ける中、大山悠輔さんは「ミスをしたくてしているわけではない。チームが勝つために一緒に練習しよう」と、捕手のチームメートに付き合い、共に練習に励んでいました。

中学3年生では、最後の大会で下妻市大会を勝ち抜き、県西大会に進出。

大山悠輔さんは「4番・エース」として注目を集めていましたが、そのため、チャンスの場面で相手チームから勝負を避けられることが多くありました。

監督の佐次聖司さんも「チャンスではほとんど勝負を避けられてしまい、負けた試合もその影響が大きかった」と悔しそうに振り返っています。

結局、チームは準々決勝で敗退し、大山悠輔さんは試合後に悔しさから泣き崩れました。

当時の心境を「思い通りにいかないことが多く、県大会にも進めなかったので、本当に悔しかったです」と語っています。

その後、大山悠輔さんは高校進学を迎え、茨城県内の強豪校からいくつかの誘いを受けることになります。

しかし、進路に迷っていた大山悠輔さんに、元オリックスバファローズの塚原頌平さんから1通のメールが届きます。

塚原頌平さんは大山悠輔さんより2学年上で、結城市出身の“隣町のヒーロー”として憧れの存在でした。

そのメールには「プロに行きたいなら、秀英に来い」と書かれており、大山悠輔さんはこの言葉に心を決め、強豪校からの誘いをすべて断り、甲子園出場経験のないつくば秀英高校へ進学することを決意しました。

この一通のメールが、大山悠輔さんの進路を大きく動かすきっかけとなりました。

高校生時代のエピソード

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つくば秀英高校に進学した大山悠輔さんは、すぐに野球部に入部しました。

そこで、当時コーチを務めていた森田健文さんの配慮により、選手寮「誠心球道館」で、2学年上で憧れの存在だった塚原頌平さんと同室になります。

森田健文さんは「プロに行く人間が、将来プロに行くであろう人間にアドバイスをする。それは帝王学だと思ってね」とその意図を語っています。

この経験は大山悠輔さんにとって大きな影響を与え、塚原頌平さんから技術を学び、時には励まされることで、2人はお互いに切磋琢磨しながら成長していきました。

「俺たちがチームを背負っていくんだ」という強い思いが大山悠輔さんの成長を加速させ、野球人としての飛躍を助けたのです。

技術は1年生の頃から一級品

高校時代、大山悠輔さんは周囲から「技術は一級品」と評される存在でした。

特に送球のスナップスローに関しては「指先の感覚が抜群だった」と言われ、フリーバッティングでも「軽く振っているのに、打球が『パーン!』と飛んでいく」と監督の沢辺卓己さんも驚いたほどです。

さらに、コーチの森田健文さんは「3年間で大山が三振した記憶がない」とその卓越した打撃センスに驚嘆していました。

大山悠輔さんは1年生の夏から「3番・遊撃手」として定着し、投手兼遊撃手として活躍。

高校通算で30本のホームランを記録しました。

チームとしての最高成績は、2年生の夏に8強まで進出したことでしたが、3年生の夏は初戦で土浦三高校に2―4で敗れ、甲子園への夢は叶いませんでした。

試合後、大山悠輔さんは「悔しいというより、信じられませんでした」と語り、涙すら忘れてしまうほどのショックを受けたそうです。

「大学JAPANに入って、絶対にプロに行く」大学進学を決意

大山悠輔さんは甲子園には出場できなかったものの、プロのスカウトからはその実力を高く評価されていました。

高校卒業後の進路を考える中で、白鴎大学からの誘いがあり、進学するかプロ志望届を出すか、悩むことになります。

お父さんを交えた話し合いの中で、森田健文さんは「今なら下位指名か育成選手としての可能性があるが、4年間大学で鍛えた方がいいのではないか」と進学を勧めました。

プロ志望の強かった大山悠輔さんはすぐに答えることができませんでしたが、帰りの車の中でお父さんに「決めた。俺は白鴎大に行って、大学JAPANに入って、絶対にプロに行くよ」と進学を決意します。

後にこの話を聞いた森田健文さんは「感情をあまり表に出さない大山がそんなことを言うなんて、相当な覚悟があったんだろう」と驚いていたそうです。

こうして大山悠輔さんは白鴎大学に進学し、プロを目指す道を歩み始めました。

大学生時代のエピソード

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大山悠輔さんは白鴎大学に進学後、1年生の春からリーグ戦に出場し、技術面では全く問題なく順調にプレーしていました。

しかし、当時助監督を務めていた黒宮寿幸さんは、大山悠輔さんに精神面での課題があると気づきます。

「声が出なくて、暗くて、大丈夫か?と思うくらいだった。技術的な指導はほとんどしていない。むしろ『グラブに当てたら絶対に離すな』『声を出せ』など、精神的な部分を鍛えました」と黒宮寿幸さんは語り、技術だけでなく心の成長が必要だと感じていたのです。

そんな大山悠輔さんが4年生になったある日、オープン戦の試合で4打数4安打1本塁打の活躍を見せますが、9回の同点の場面で迎えた5打席目に三振を喫し、試合は引き分けに終わりました

試合後のミーティングで、黒宮寿幸さんから「なぜあそこでホームランを打てないんだ!4打数4安打で、5打数目が打てない理由は何だ!5の4は許さない、だったら5の0で帰ってこい!」と厳しい言葉を投げかけられます。

大山悠輔さんはその瞬間、なぜそこまで言われるのか戸惑いましたが、冷静に考えた結果、「その1本が出るか出ないかが、チームにとってどれだけ重要なことかがわかった」と4番打者の責任を再認識することになります。

それ以降、大山悠輔さんはフェンス直撃の長打を放っても「あと2、3メートル足りない理由は何か」と、常にその先を追求するようになりました。

鬼気迫る何かが降臨…大山悠輔の目の色が変わった瞬間

大きな転機は、4年生の春の大会で訪れます。

チームが平成国際大学に1勝2敗で敗れ、空き週(試合がない週)に突入した際、黒宮寿幸さんはチームに「10日間で1万スイング」という厳しいノルマを課しました。

すべてティーバッティングによる特訓で、かなりの過酷さを伴うものでしたが、その時、大山悠輔さんの目の色が変わり、黒宮寿幸さんは「何かが降臨したという感じで、気迫が明らかに変わった。もうこの子に教えることはないなと思いました」と、その変化に驚いたと振り返ります。

その予感通り、大山悠輔さんは2016年5月16日の上武大学戦で2本塁打を放ち、チームを勝利に導きます。

このシーズン、大山悠輔さんはリーグ新記録の8本塁打、リーグタイ記録の20打点を達成し、勝負強い選手として成長しました。

力の無さを痛感した目標の日本代表入り

その活躍が評価され、大山悠輔さんは大学日本代表に選出され、目標の一つを達成します。

4番打者として代表チームに臨みますが、5試合で15打数2安打、打率・133、本塁打も打点も0という厳しい結果に終わりました。

150キロ前後の速球や小さく変化する球に対応できず、「自分の力不足を痛感しました。もっとうまくなりたいと思わせてくれる良い経験でした」と、大山悠輔さんは振り返っています。

この苦い経験にもかかわらず、全国の強打者たちを押しのけて4番に座ったことは、大山悠輔さんの名を全国に広めるきっかけとなりました。

名誉あるドラフト1位指名…のはずが阪神ファンからは悲鳴の声

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2016年10月20日、大山悠輔さんは緊張した面持ちでドラフトの結果を待っていました。

すると、セントラルリーグの人気球団「阪神タイガース」からのドラフト1位指名という大きな朗報が飛び込んできたのです。

「驚きすぎて、言葉にならなかったです」と振り返る大山さん。

しかし、その時周囲から上がったのは歓声ではなく、「えーっ!?」という驚きの声でした。

当時の阪神タイガースは、先発投手陣の高齢化が進んでおり、投手の補強が急務とされていました。

ドラフト1位の予想では桜美林大学の佐々木千隼投手(現・横浜DeNAベイスターズ)が有力と報道されており、ファンも佐々木千隼投手の指名を期待していました。

そのため、佐々木千隼投手が他球団から指名されていなかったドラフト当日、阪神ファンは「佐々木千隼を一本釣りできる!」と喜んでいたのです。

ところが、阪神タイガースが指名したのは大山悠輔さん。

ファンの間では「誰やねん」という声が広がり、中には「大山、重複しろ!」という心無い言葉も飛び交いました。

「オレのせいでごめん」謝罪から始まったプロ野球人生

夢だったプロ野球選手になった大山悠輔さんでしたが、ファンの悲鳴を耳にして大きなショックを受けました。

さらに、家族まで傷つけてしまったことに対して「自分に力が足りない、有名じゃないからだ」と自責の念を抱いたそうです。

ある雑誌では、阪神タイガースのドラフトを「50点」と評価し、「史上最悪」とまで酷評していました。

同期入団の選手たちに連絡先を聞き、大山悠輔さんは片っ端から「自分のせいでこんなふうに言われてごめん」と謝り続けたと言います。

しかし、このままではいけないと、大山悠輔さんはプロ入り後、結果を出して周囲を見返そうと心に誓い、彼のプロ野球生活は逆境からのスタートとなったのです。

なお、余談として、大山悠輔さんはパシフィック・リーグの埼玉西武ライオンズやオリックスバファローズが2位で指名予定だったとも言われており、決して評価が低かったわけではなかったことも付け加えておきます。

逆境を切り開き、連敗中のチームを勝利へ導く!

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2017年、大山悠輔さんはついに阪神タイガースの一員としてプロの世界に踏み出します。

オープン戦の前半までは一軍に帯同しましたが、途中で二軍に合流することになりました。

金本知憲監督から「半年間で体重と筋肉量を増やしなさい」という指令が出ていたのです。

プロの世界では体作りが重要とされ、大山悠輔さんも食事とウエイトトレーニングに励みました。

そして見事に、この目標を1か月早くクリアし、一軍に復帰します。

7月1日、阪神甲子園球場での東京ヤクルトスワローズ戦。

大山悠輔さんは5番・一塁でプロ初のスターティングメンバーとして出場しました。

当時の阪神は8連敗中で、チームの雰囲気も悪い状況でした。

そんな中、3回裏二死二、三塁のチャンスで大山悠輔さんに打席が回ってきます。

原投手の直球を振り抜くと、打球はレフトスタンドにぐんぐん伸び、スリーランホームランに!

この一打で自身初安打、初本塁打、初打点を記録し、試合の決勝打となりました。

金本知憲監督は思わずガッツポーズを見せ、スタンドの阪神ファンからは歓声が鳴りやまないほどの熱狂が巻き起こりました。

大山悠輔さんはベースを回った瞬間を「今までで一番幸せな時間だった」とヒーローインタビューで語り、その喜びを噛み締めていました。

実家で試合を見ていたお母さんも「娘と抱き合って涙が止まりませんでした。甲子園は彼にとって夢の場所。高校時代に叶わなかった甲子園でホームランを打つなんて夢のよう。悠輔が幸せな時間だと言った時、私もまた感動して泣きました」と感極まった様子でした。

ドラフトでの悲鳴が、歓喜の声に変わった瞬間。

大山悠輔さんはこの一打で逆境を乗り越え、プロ野球生活の幕を大きく開けたのです。

涙が止まらなかった人生初の優勝…名実ともに虎の4番へ

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その後、大山悠輔さんはプロで着実に成長し、阪神タイガースの主力選手としての地位を確立していきます。

そして迎えた2023年、大山悠輔さんはプロ7年目のシーズンで全試合に4番・一塁手として出場しました。

9月14日、阪神甲子園球場での読売ジャイアンツ戦で、決勝打となる犠牲フライを放ち、阪神タイガースを18年ぶりの優勝に導きました。

優勝の瞬間、大山悠輔さんは涙が止まりませんでした。

学生時代から優勝とは無縁だった大山悠輔さんにとって、人生で初めての優勝という感動は格別だったのでしょう。

ドラフトでの逆境から始まり、悔しさやあと一歩での優勝を逃したシーズンを経て、ついに悲願の優勝を手にした感動がこみ上げてきました。

さらにクライマックスシリーズでは広島東洋カープを破り、パシフィックリーグ優勝チームのオリックスバファローズとの対決に挑みます。

激戦となった7戦目まで続いた日本シリーズで、大山悠輔さんは4戦目にサヨナラタイムリーを放ち、5戦目と7戦目でもタイムリーヒットを記録するなど、大活躍でチームを38年ぶりの日本一に導きました。

この瞬間、大山悠輔さんの顔は喜びと達成感に満ちた笑顔で輝いていました。

今では阪神甲子園球場で大山悠輔さんのユニフォームやタオルを持つファンも増え、彼の人気は急上昇しています。

これからの大山悠輔さんのさらなる活躍にも、期待が高まります!

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